日々思ったことや感じたことをのんびり書いていこうと思います。


by symphonic-bone
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カテゴリ:のんびりしたこと( 17 )

お正月に

いつの間にか年も越してしまいました。
とはいえ、おめでとうとも言えないので
「今年もよろしくね!」
ばかり言いまくっていた今年のお正月。

とはいえ、何もしていないわけではありません。
「課題、やらなきゃ」
と、一応のやる気は見せました。
バイトばかりの寝正月ならぬ働き正月でしたが、冬休みの最後の日に、毎年恒例のわたし流初詣に出かけました。

普通は初詣というと北野の天神さんとか平安神宮とか、そういったところを思い描きますがわたしが毎回参っているのは一条戻り橋にある晴明神社です。
ご存知の人も多いでしょうが、祀られているのは希代の陰陽師、安倍晴明です。

わたしが晴明神社を参るようになったのは高2の正月からです。
なんだかかっこよく
「わたし、昔は理系やった」
ということもありますが・・・いや、それは間違ってはいないのですが、わたしが化学から地理に気持ちを入れ替える前に、日本史とか日本文学をやりたいと思っていた時期がありました。
そのきっかけが、安倍晴明でした。
今だって、そのころの気持ちを忘れたわけではありません。機会があればいつだってまた安倍晴明の事を調べたいと思っています。
なかなか、難しいですけどね・・・。

ともかく、そんなこんなでわたし流の初詣は晴明神社に参ってから河原町に行き、JEUJIAによって楽譜とかスコアとかを買い、楽器売り場をひやかして、そのあと丸善かブックファーストで本を買うというのが恒例だったのです。
それを高2のときから続けています。
昨年はJEUJIAの楽器売り場で店員のお兄さんと仲良くなって、70万とかするバストロンボーンを吹かせてもらったのです。
あぁ、あれからもう1年も経ったなんて・・・。
しかしですね、丸善もなくなっているようだったし・・・なんていうか、時代は確実に移ろいでいるんだなぁと感じました。
たとえわたしは高2のときからまったく変わっていなくても。
まったくということはなくても、こういうのを目にすると、しんみりしてしまいますね。

・・・という恒例の初詣をするつもりでした。
それが、今年に限っては恒例のものの間に新しいものが入ってきたのです。
晴明神社に行った後、銀閣寺に行くというコースです。

つまるところ、あんまり寒かったので来たバスに乗ったら銀閣寺道に行ってしまった次第です。
本当なら河原町行きに乗ろうとしていたのに。
ともかくわたしは銀閣寺前のバス停で降りました。
しかしここでも天邪鬼ぶりを発揮です。
銀閣寺に行く道の横手にある哲学の道という道を、道なりに歩くことにしたのです。

哲学の道には、昨年の春に地図君と一緒に来たことがあります。
そのときは一緒にお花見がてら道を歩いたのです。
もちろん何か話しながら歩いたのでしょうが、残念ながら彼と話した言葉の断片をも見つけることはできませんでした。
わたしは冬の哲学の道をひとりで歩きながら考えます。
「地図君がわたしのことを忘れてしまうのならそれもかまわないけれど、いつかこの道を歩いたときに、一緒に行ったっけなぁってくらい思い出してくれたらうれしいのに・・・。」
甘えた考えですけどね。

道なりに歩いていると、なんだか歌が歌いたくなってきます。わたしは頭の中でいい曲を探してみて・・・あった。
「あるこ~あるこ~わたしはげんき~♪」
おいおい、いったいいくつなんだよ。
歌っているうちに山の景色が目にしみて、地図君のことを考えて・・・でも泣きませんでした。
ただ、懐かしいなぁと年寄りじみたことを考えるばかり。
今一番会いたくないけど、会いたい人。
なんだか複雑な心境です。

家に帰ると、今日買ったスコアを手元に、音源を聞きました。
・・・亡き王女のためのパヴァーヌ。
まぁ、わたしがトロンボーンを吹く限り縁はない曲なんですが、わたしが一番大好きな曲です。
わたしの先輩がわたしの20歳の誕生日に贈ってくださったCDに入っています・・・
覚えていますか、先輩?

そんなこんなで、毎年恒例のわたし流初詣は終了しました。
いやぁ、後から思い返すと今までにないいい初詣だったなぁ。
ひとりだからこそ、いいんです。
たまには誰とも話さずに自然だけを相手に過ごす1日も素敵ですよ。
1年の初めとしては、悪くなかったように思います。
今年もよろしくお願いします。
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by symphonic-bone | 2006-01-06 14:01 | のんびりしたこと

ある晴れた日に

昨日は雪がたくさん降っていました。
その影響なのかわかりませんが、今朝わたしの地元では霧が大発生し、「濃霧の影響」の名のもとで、電車が20分遅れという事態が発生しました。
しかもですよ。
実際に濃霧の影響が大きかったのは、わたしが利用する奈良線ではなく、難波から加茂をつなぐ大和路線なのです。
とはいえ、もろに奈良線ともかぶっていますから、仕方ないのでしょうね。

学校まで来ると、空はだいぶ晴れていました。
空気が澄んでいる。
そんな風に思いました。
昨晩の練習後に空を見上げたときも、夜空がすごくきれいに見えたんです。
空気が澄んでいるから。
それに、わたし自身今はわずらわしいこともなくこころが楽だからかもしれません。
はぁー。

退屈という名目で、彼に最近の練習風景を伝えました。
文章だから言いたい事も限られてきますが、ともかくわたしは彼に見せつけたかったのかもしれません。
あなたがいなくてもわたしは幸せなんだよ、と・・・。

なんのとりとめもない文章になってしまいました。
久しぶりに晴れて気持ちがよかったから、ぼんやり外を歩きながらこんなことばかり考えます。
そんな日も、あるのです。
さてと。
次の授業は寝たりしないでがんばろう。
終わって外を出たら、きっときれいな夕焼け空が待っているから・・・。
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by symphonic-bone | 2005-12-07 13:21 | のんびりしたこと

あおぞら

少しずつ前を向けるようになってきました、そらです。
定演があってあんな文章を書いて、書いた直後にまたもや彼と仲違いしてどうしようかと思っていたところに今度は、わたしを大切にしてくれていたおじいちゃんが、ついに天国へ行ってしまいました。
おじいちゃんは6月の時点からすでに意識はなかったわけで、ずいぶん長く話もしていなかったのですが、「死んだように眠ったまま生きている」のと、「死んでしまった」とは大きな差があります。
すごくすごく悲しくて、なんだか家に引きこもってしまいそうな勢いだったのですが、わたしのパートトップの先輩にメールして休む旨を伝えた際、彼はこんなことをわたしに言ってくれました。
「気落ちしてしまうのは仕方ないけど、いつかは来ることやしね。・・・前向きになれるように気持ちをまとめていくのが一番の供養だと思うよ」
・・・先輩!
その文章を読んでまたざめざめ泣いて、そしたら幾分すっきりしてきました。
後ろを向かずに前を向いて歩こう。
ようやく晴れ間が見えてきたようです。
ありがとうございます。
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by symphonic-bone | 2005-11-22 22:00 | のんびりしたこと

未来のひかり

すっかり秋も深まってきました。朝晩はさすがに冷え込みます。
さて、やはり秋といえば読書の秋。わたしは最近興味深い本を読みました。
題して、『時生』。
昨年、NHKの連続ドラマにもなったようです。残念ながら見ていませんが。
この話は、本当になんとも言えずにはっとさせられるものが多かったのですが、今回も例に似ずはっとしました。

主人公である時生が、過去にいって若かりし日の自分の父親に会うというところから話は展開していきます。
父親である拓美は、職もなくふらふらしたっきりのダメ人間。その上、自分の出生の過去にとらわれて、現実を見ようとしません。自分はかわいそうな人間だと、そう思っているのです。なぜ生まれてきたのか。自分には未来がない。そんなことばかり言い続けます。
・・・ここらへんで、なんだか自分と類似点が多いような気がしました。うーん。
時生は、不治の病を患っていて長くはありません。そんな最中に過去へと旅してきて父親の姿を目にし、こんなことを言うのです。

「好きな人が生きていると確信できれば、死の直前まで夢を見られるって事なんだよ。
あんたのお父さんにとっておかあさんは未来だったんだ。人間はどんなときでも未来を感じられるんだよ。どんなに短い人生でも、たとえほんの一瞬であっても、生きているという実感さえあれば未来はあるんだよ。あんたにいっておく。明日だけが未来じゃないんだ。それは心の中にある。それさえあれば人は幸せになれる。それを教えられたからあんたのおかあさんはあんたを産んだんだ。それをなんだ。あんたはなんだ。文句ばっかりいって、自分で何かを勝ち取ろうともしない。あんたが未来を感じられないのは誰のせいでもない。あんたのせいだ。あんたが馬鹿だからだ」

言われた拓美も言葉をなくしましたがわたしも言葉を失くしました。
あぁ・・・時生の言うとおりだと。
わたしは、いつもいつも自分の過去を振り返り、そのこと自体はどうなるわけでもないのですが、いかんせんこだわりすぎているのかもしれないと、そう思いました。
わたしは幸せになる価値がない。
そんなことばかり言っているから、結局みすみす幸せを逃してしまうのです。

1つ前のブログで、ふんわりした結末を書いていますが、それをもわたしは失くしてしまいました。
不可抗力なんていいません。
自分が、自分の意思で手放したのです。
というのも、あのブログでは出てくる「彼」が、わたしに本当のことを言うからということを言ってくれたと書いています。その次の日くらいでしょうか。わたしは何の気なしにこう尋ねます。
「わたしと行くって言ってくれたんは、単に行く人がおらんくて、たまたまわたしが出かけたいって言ってたからであって、わたしのほかに行きたいって言ってた人がいたら、わたしじゃなくてもよかったんやろ?」
ところが、彼はこう答えます。
「ううん、そらちゃん以外の人と行っても楽しくないし、そらちゃんと行きたいと思ったから」
普通は、ただ素直に喜ぶはずですが、でもわたしは・・・わたしは、本当にどうしようもない人間なのです。
こんなの、本心じゃない。嘘に決まってる。
そんな風に、思ってしまったのです。

一旦そう考えると、あとは坂を下るようでした。
わたしが言わせただけかもしれんなぁ、だってこんなことを言ってくれる人がいるはずがない。
わたしなんか、そんなことを言ってもらうような価値のある存在じゃない。
絶対嘘やわ。でも、嘘やとしたら・・・わたしには本当のことを言うって、前に言ってくれたのに、それも嘘やったんかなぁ・・・。何であんなこと言うんやろ。嘘っぽいこと・・・。
これ以上は書いても仕方ありませんが、ともかくわたしは信じることができませんでした。
逆に言うと、はじめは「信じられないくらいにうれしい」という感情があったのですが、それがいつの間にか「そんな言葉信じられない」という、彼自体を否定する感情に変わっていたのです。

ともすれば、
「彼が言った、わたしといきたいからという言葉が、その言葉自体が本心だったのだ」
という回答も残っていたのにわたしは彼に詰め寄って
「もうわたしを甘やかさないで、優しくなんかしないで」
なんて言ってしまいました。すると彼は
「じゃあそらちゃんにはこれからは厳しく接したほうがいいのかな・・・。悩みは誰にだってあるんだから、それをどうやって乗り越えるかは自分しだいだよ」
と言いました。
わたしは考えました。厳しくったってなんだよとも思ったし、確かに言うことすべてに一理あったのですが、彼はそのどこにもわたしと行く予定にしていたそのことについての意見を言っていなかったので、やっぱり行きたいって言ったのは、わたしを甘やかしてただけなんだという結論に達してしまい、
「フランスに行くために今、休み返上でバイトしてお金ためてるんやったね。なら、今度の約束の日も働いてきなよ。わたしは何も気にしない。今わたしと出かけることと、フランスに行くためにお金ためること、どっちが今するべきことなんかちゃんと判断したほうがいいよ」
そんなことを言ってしまいました。
これはわたしの本心なのでしょうか・・・。自分でも理解がしきれなくなってきました。

こんなことを繰り返しているうちに、きっと彼はわたしに嫌気がさすでしょう。
でも、それでいいのです。
彼はわたしなんかと一緒にいたらダメな人になってしまう。だから、離れるべきなんだ。もうわたしは一生分幸せやった。
そう・・・この先楽しいことがなくても、今までの幸せで十分やったよ。

で、時生の話に戻りますが、時生にいわせればわたしは馬鹿なんでしょうね。
わたしが逃げてばっかりで、自分で何かを勝ち取ろうとしないから・・・。
ほんと、最低の人間です。
それでも、わたしには明日がやってきます。
なにもしなくても、また何かをしても同じように日は昇ります。
その未来がどうなるのかは・・・いくらでも変えることができるのではないかと思うのです。
昨日までとは違う1日を過ごして、来る未来が優しいものならいいのに。
そのために今できることを、少しずつ進めていこうと思います。
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by symphonic-bone | 2005-11-01 15:44 | のんびりしたこと

あたりまえのこと

最近仲直りをした友達が、わたしの知らない間に変わっていました。
彼は、なんだか自分の気持ちをちゃんとわたしに伝えようとするようになったのです。
なんのことはない、他人から見たら当たり前のことなのでしょうが・・・。

以前、彼は自分の気持ちを話してくれないとか何とか書いたような記憶もありますが、それから今日までの間にいろいろありすぎて過去のことになりつつあるこのごろでした。
仲直りをした(彼のほうはもともとわたしとけんかをしたという意識がなかったらしいのですが)その日にメールを送ってみました。
いつもEメールなる文明の利器で失敗しているわたしですが、それがわたしの、自分を表現する精一杯の方法なのです。
自分で書いてて泣けてきます。
すると、返ってきた返事には、今までの彼とのやり取りの中でもわたしが目にすることのなかった文字が並んでいるのです。
「そらちゃんがそういってくれるとうれしい」
「今日は本当にありがとう」
驚きとうれしさで卒倒しかけました。

でも、誰が見てもありふれた、ごく当たり前の文章ですよね。
わたしはこの言葉のどこを見て、そんなにびっくりしたのか。
・・・読んで驚かないでください。
「うれしい」、「ありがとう」
この言葉に、特にびっくりしたのです。
彼はたとえそんな風に思っていても、絶対口にしない人間だと思っていたからです。

この友人というのは、本当に自分の思ったことを言うことが少なく、長い間一緒にいるのにもかかわらずわたしも未だにつかめないところがあります。
そのせいでわたしは彼を傷つけ、いろいろあったわけですが。
でも、その彼がわたしにこう言うのですよ。
「うれしいよ」
と。
うれしい、というのは間違いなく自分の心の中にある気持ちです。
彼のそんな言葉を、わたしは聴いたことがなかったのです。

正直に言うと、いつも彼の顔色を窺って話をしていたのかもしれません。
「あ、嫌そうやな」
「もしかして喜んでるんかな」
わたしは常にそうやって自分で判断して来たのです。
まぁ、言われてみれば普段から
「うれしい!」
とか
「ありがとう!」
ばかり言っている人も少ないのでしょうが、彼に関しては、顔が見えないメールのときでさえそういう感情を表に出してくれないので、そのこともあってわたしは余計にうれしく思いました。

そうです、きっと当たり前のことなのです。でも、それがなぜそんなにうれしく思えるのか。
下記の詩のようなものは、10月10日に放送された、『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』というドラマの原作になった本の一節です。


 「あたりまえ
 こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう
 あたりまえであることを
 お父さんがいる
 お母さんがいる
 手が二本あって、足が二本ある
 いきたいところへ自分で歩いてゆける
 手を伸ばせばなんでもとれる
 音がきこえて声がでる
 …
 みんなあたりまえのこと
 こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
 そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ
 なぜでしょう
 あたりまえ

  井村和清(昭和54年1月1日)
  <『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』(祥伝社刊)より>」


これを読んで、わたしは思いました。
「あぁ、確かにそのとおりだな・・・」
と。
失くしてみて、気づくのです。
そのもののあまりの大きさに。
自分が深く悲しんでいるということに。

わたしは、彼といるのは当たり前だと思っていたのです。
メールをするのも、話すのも、一緒に出かけるのも。
でも、一度それを失くしました。そのときに、その大きさに気づいたのです。
当たり前だと思っていた自分がいたから、失くしてしまった。
喜ぶことすらしなかったから、当たり前だと思っていたから・・・。

当たり前のことは、すばらしいことです。
珍しいことはその場限りで終わってしまうことが多いけれど、当たり前のことはずっと続きます。
おとうさんとおかあさんは、ずっとわたしだけのおとうさんとおかあさんです。
秋の空を眺める目も、金木犀のにおいをかぐことのできる鼻も、トロンボーンの音を聴くことのできる耳も持っています。
『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』を見て、その当たり前のことこそすごいことなんだということに気づきました。
そして、わたしを見守ってくれる先輩や友達がいるということに、今わたしがいるということに、彼の返事の内容に、心から感謝しました。

当たり前だと思っていること・・・そのことこそ、一番喜ぶべきなのだと思いました。
そのことは、失くした人しかわからないということはありません。
当たり前だと思っていたことに注意深く耳を傾けて、そしてそのことに感謝したときに、
「あぁ・・・すばらしいことだ」
と、気づくことができるのだと思います。

当たり前のこと。
それはただただ単純に、幸せだと思うことなのです。
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by symphonic-bone | 2005-10-12 13:51 | のんびりしたこと

犬に生まれて・・・

さてさて、ここのところずっと自分の気持ちを書いてきたわけですが、ここいらでちょっくらこんな話をさせていただきます。
写真は、我が家の末っ子、太一といいます。でもわたしは漢字で書くのはあまり好きではないのでひらがなのイメージで話しかけます。
たいち。
なんだか優しい感じがしませんか?

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彼はわたしの中では「King of AHO」です。
だって、本当にあほな子なんですもの。
その理由はいろいろありますが、まず第一にたいちが赤ちゃんのときの出来事が大きく関係しているとわたしは推測しています。

たいちは今でこそ外犬ですが、小さいころはむろん、家の中で飼っていました。
階段の段よりも小さい子犬が、家の中をうろうろしている・・・!
毎日家に帰ってくるのがどれだけ楽しみだったことでしょう。
まぁ、ね・・・それもはじめの数ヶ月でした。今のたいちはというと、わたしが家を出るころには裏庭で日向ぼっこをしているし、わたしが帰るころには眠っているのですから、わたしと彼はほとんどすれ違い生活をしています。
今日の写真は偶然です。ちなみに、
「まだ半そで着てるのですかぁ」
と言っているように思えました。

そうそう、何故あほなのかでしたね。
いつだったか、わたしが
「たいちはほんまにあほ犬やわ」
とつぶやいていると、妹がこそこそとやってきて、
「なんでわかったん」
と言うのです。
「いや、だって・・・」
わたしが言いよどむと、妹は衝撃的な一言をぶつけてきました。
「太一が赤ちゃんのときに、あたし、階段の一番上から落としたことあるねん。わざとじゃないけど。だからかな」
そ、それだぁ・・・!!
ていうか妹、そんなことをしていたとは。
「でも、太一って頑丈やったみたいでさ、今も元気に動いてるしいいやん」
そういう問題なのか。
そのことを母親に言うと、
「たぁちゃんはあほ犬さんなんかとちゃうで」
と、わたしのほうが怒られてしまいました。

さらに注目すべきは、たいちは手を触られるのがいやなので、満足にお手ができません。
これも妹のせいなのですが。
昔、家に小さな車輪に取っ手が付いていて、腹筋をするような体勢でその車輪を転がして筋肉をつけるという、意味のわからない器具がありました。
おおかた、父親が買ったものだとは思うのですが。

やはりたいちが赤ちゃんのときです。
彼のテリトリー内であった居間で、彼はちょこちょこと走り回っては母親にご飯をねだったり、寝転がるわたしの体を踏みつけていったりしていました。
さぁ、ここで妹の登場です。
もう、先は読めているのではないかと思うのですが、そのとき妹は同じく居間で、テレビを見ながら果てしなく意味のわからない器具で運動をしていました。
そこへ、
「キャン!」
と言う声が上がりました。と同時に
「あ、ごめん」
と、なんとも冷静な声も上がりました。
妹は、その器具でたいちの前足を踏んでしまったのです。
しかし階段から落ちても元気なたいちです、今回も何事もなかったかのようにまた動き始めました。
「なんや、こいつは」
とわたしは思いましたが、まぁお手ができないくらいなので日常生活に差しさわりはないようです。
しかし、幼児期の心的外傷はおそるべしだ、ということを学ぶことができました。

とはいえ、わたしはたいちに毎回無理やりお手をさせ、昨日の夜は帰ってきて偶然に目をパッチリ開けていたたいちに、
「起きてるんやったらリバーダンスでもしよか」
とむんずと前足をつかんで立たせると引っ張りまわしました。
「キャイン!」
とたいちが悲鳴をあげたのはいうまでもありません。

たいちが何を考えているのかはわかりませんが、ただわたしは
「この家に来てよかったよ」
と思ってくれたらいいのにと思います。
犬であるが故にできることやできないことはありますが、なんにせよこの日常がたいちにとって幸せなものであればいいのにと願うまでです。
偏った親心かもしれませんが・・・。

犬でも人間でも、植物でも昆虫でも。
生きていると言うことはみんな同じだな、と、たいちを見ていると思います。
あなたに出会えて、よかったよ・・・。
そんな風に思える相手がいると言うことは、それだけで幸せです。
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by symphonic-bone | 2005-10-08 13:29 | のんびりしたこと

はじめまして

はじめまして、わたしは京都の大学に通うごく普通の大学生です。
名前は”そら”といいます。
青空も星空も、ご機嫌斜めの曇り空も、みんなすきだからです。
わたしの周りでブログを作るということが流行っているようなのでわたしもやってみようと思いました。
そんな単純な理由です。
ということもありますが、わたしの周りには面白い人たちがいっぱいいて、面白いこともたくさん転がっているので文章にしたいという気持ちがあるからともいえます。
大変つたない文章ではありますが、暇なときにでもつれづれ読んでいただければ幸いです。
よろしくお願いします。
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by symphonic-bone | 2005-09-21 10:23 | のんびりしたこと