日々思ったことや感じたことをのんびり書いていこうと思います。


by symphonic-bone
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<   2005年 10月 ( 10 )   > この月の画像一覧

雲の向こうに

昨日はよく晴れていたのに、今日は少し曇り空です。
明日から雨が降るというのは本当なのかもしれません。天気予報を見たわけではないのですが。
もちろん、きれいな青空は好きですが、曇り空もきらいではありません。
自分に似ているような気がします。

昨日、自分の身の上をある人に話そうと思いました。
わたしが今まで誰にも話さずに隠してきたことです。
そう・・・、隠し通してきたのです。
理由はいたってシンプル。
話すことによって、相手に嫌われてしまうと思っていたからです。

わたしが必要以上に周りを気にし、事あるごとに「迷惑なんやね」とか「ほんまは嫌なんやね」と、いい続けるのは、その過去の傷のせいなのです。
そのことをなぜその人に話そうとしたかというと、つまりは昨日書いている「彼」なのですが親友に言われたこともあって、このまま彼が何も自分の気持ちをも話してくれないのならばわたしはどんどん傷ついていくという、あれを聞いたからなのです。
彼と頻繁にどこかに出かけるようになって、でもわたしは心の中に
「なんでわたしと行くんやろう」
とか
「仕方なく行ってくれてるんかなぁ」
と思いながら出かけるのは無理だと判断したからです。
もしも彼が、わたしの身の上を聞いて
「そらちゃんといるのはどうりでしんどい」
と思うならば、残念な話ですがもう一緒に出かけるのは止そうと思っていました。

「・・・だから、考え直して。わたしといても、疲れて気が滅入るだけやと思うから」
彼は予想通りしばらく考えていましたが、
「うん、じゃあ今、行くって決めてしまおう。行くんやね?」
あれ、話がかみ合ってないのかな。
「なんで、さっきからいってるやん。どうせわたし、また迷惑やろとかそんなことばっかり言うに決まってるんやから。いいねんで、無理しなくて」
彼はまた少し考えると
「ううん、言ってもいいよ。そらちゃんが言って楽になるなら僕は聞くよ。そうやってひとりで悩むから、下ばっかり向くんやん。話してくれていいから」
・・・わたしはあ然として言葉もなく、と同時にその優しさが心にしみてきて泣きそうになりました。

悲しいことに、こんなことを言ってくれる友人というのは中学・高校時代を合わせていませんでした。
わたしとかかわったら面倒だから、そんな雰囲気濃厚な中でわたしは6年間を過ごしてきたのです。
でも彼は、そんなことは言いませんでした。
「嫌なことがあったのなら一緒に背負ってあげる、僕の気持ちもちゃんと話すようにする」
そんな風に言ってくれたのです。
で、わたしはそれでも
「こんなことありえへんわ」
と思ったので
「ほんまに迷惑じゃないの?」
を3回ほど彼に繰り返し言いました。そのたびに、うんざりしたような素振りも見せずに
「うん、迷惑なんかじゃない」
と、わたしの目をまっすぐに見て言ってくれました。

ここで雑学ですが、わたしは専攻が地理学とはいえいろいろな学問をかじってそのどれもを中途半端にしている気もしますが、ともかくそれなりの知識を身につけた心理学の知識によりますと、人間というのはうそをついているか否かということを、目の動きで調べることができるのです。
女性の場合、うそをつくときは相手の目をまっすぐに見つめます。だから、男性が女性に
「俺の目を見て言えるのか!?」
というのは、逆効果となるわけです。
逆に男性の場合はうそをつくときは相手の目をあまり見ずにおどおどと目線をそらす割合が多いのです。
何かの記者会見で
「事故はあなたがたの責任ではないのですか!」
と責められている男性の社長。
「そ・・・そんなことはありません」
と言いながら目も泳いでいると思います。
はい、今すぐ使える心理学でした。

ともかく、彼がわたしの目を逸らさずに見たというのは、真実を述べている確率が高いと思われるわけです。
心理学を全面的に信じるわけでもないのですが、それもひとつの判断の基準だなんて考えてしまいました。
彼にもてっきり嫌われるだろうと思っていたのに、むしろ何か救われたような感すらあります。
ほっとしました。

必死で取り繕った自分を見せるくらいなら、多少は傷ついて汚れていても、ありのままを見せるほうがいい・・・そんなこと、今までだったら考えられなかったと思うのですが、彼にはそんな面を見せてもいいのだということがわかっただけでも、幸せです。
隣を歩いてくれる誰かを、いやな気持ちにさせないように・・・素直に、でもありのままの自分で過ごしたいと思います。
多少は甘えて、寄りかかってもいい・・・そんな心のよりどころを見つけました。
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by symphonic-bone | 2005-10-26 14:16 | 友達とのこと

秋の気配

気づけばもう、10月も半ばを過ぎて下旬。
11月に向かっています。
秋は本当にいい季節です。空が高いから、すっとしますね。
学校帰りに近くの寺院の石段に座って、金木犀の香りに、また空の透き通るような青さに五感全部を使って時を過ごします。
ちょっと変な人間に思われているかもしれませんが。

読書の秋、食欲の秋、秋にはいろいろ言葉をつけることができます。
わたしにとって秋は、考え事をするのに最適な季節です。
・・・とはいえ、最近ではそうそうマイナスに考えることも少なくなっています。かといってプラスになるようなことを考えて期待しまくりの日々を送っているわけでもありません。
そもそもの、根本的なことをいろいろ考えます。

人間関係において「合う人」「合わない人」というのは、悲しいかなどんな人であってもいると思います。
でも、子どもじゃない限りは、したたかに感情を押し隠して付き合っていくこともできるわけです。
それが大人の付き合いです。
ただ、この間同じクラスの親友に、こんなことを言われてしまいました。
「あの人といると、そらがかわいそう。だって、こんなに悩んでるんだから」

わたしとしては、親友がその相手のことをそういうのもわからないでもありません。
このブログ上でも、わたしはその相手と起こした小さないさかいを逐一書いてきたわけですが、わたしとしては、周りにそんな風に見られているとはまったく気づきませんでした。
「あの人といると、かわいそう」
それは、同情でもなんでもなくて、本心からわたしを気遣っていってくれたのでしょう。
だからこそわたしは、はっとしました。

彼とわたしは、「合わない」のかもしれない・・・。
彼女に指摘されて、初めて気づきました。
わたしは彼の考えていることを知りたくて、もとい相手の気持ちが曇っていて見えないとすぐ不安になっておろおろしてしまうので、彼女は最近自分の殻に引きこもりがちなわたしを見て、そう言おうと決心したようでした。

わたしの場合、それが言われてうれしくない本心であったとしても・・・たとえば
「きもい」
とか、
「お前なんかいなくていい」
だったとしても、それでもそれが相手の「思い」なのだとしたら、そうわかっただけでほっとします。
でも、彼はほとんど自分の気持ちを言葉にしない・・・強いてわたしが言われたことといえば
「そらちゃんはマイナス思考の度がすぎるよ」
という言葉と、
「でも優しいね」
という、なんともいえない言葉であります。
優しいという感覚も、また微妙なところですし。
ともかく、親友によると、そういう人とわたしは、合わないんだそうです。
「うれしいよ」
「悲しい」
「怒るよ」
・・・そうやって、臆面も見せずにわたしに感情をぶつける人、わたしの人間関係の中で必要なのはそういう人なのだそうです。

普段ならそうやねで終わってしまうところですが、秋の風の中いつも以上に考えさせられました。
わたしというこんな人間を、でももしも彼が受け入れてくれるなら・・・多少のマイナス思考には目をつぶり、わたしがネガティブなことばを言おうものなら、真正面から
「そんな事言ったらだめ」
と叱ってくれるなら・・・また状況は変わる気がしますが。
いくら親友にそういわれてわたしが悩み考えても、そのせいで彼との人間関係が切れてしまうということもないとは思いますが、親友に言われたその言葉はこれからも胸に刻んでおこうと思いました。

こんなことをいろいろ考えつつ、今日の練習のことや練習のコラールのことを考えつつ、まぁなんにせよ自分は今の日々を楽しんでいるのです。
優しくも儚い、そんな秋の1日でした。
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by symphonic-bone | 2005-10-25 15:34 | 友達とのこと

優しさの架け橋

ずいぶんと長い間、忙しくしていたり自分が不安定でふわふわしている日々が続いていたので、本当に久しぶりに何かを書こうという気になりました。
不安定だった間は、友達に堂々巡りのことばかり吹っかけては泣きながらメールをして、わざわざ早く練習場所に来てもらって話を聞いてもらったりしていました。
学校の帰りの電車の中でぽろぽろと涙をこぼすわたしを、周りの人は奇異の目で、また物悲しそうに見ていたのが印象的です。
部屋で1人で酒をあおって、珍しく酔って寝転んで目をつぶった覚えもないのに気づけば朝になっていました。
そんな日々をすごしていたのです。

元に立ち返ってみてから考えると、本当に何のことはないことなんですよね。
いつもなんですけど。
でも、その時のわたしにとっては人生を左右するほどの大問題に感じられているわけです。
ほかの人が聞いたら
「えっ、なんでこんなことで悩むの!?」
というようなことです。
誰が名づけたのかわかりませんが、それをマイナス思考といいます。

悲しいことにプラス思考というのがどんなのかわかりませんが、あまりにひどいマイナス思考になるとどんな気分になるのかなら、いっぱい話せます。
ここでは割愛しますが、要は一歩間違うと自殺しそうな勢いです。
笑い事じゃないですが、中学生のころからあまりにもひどいマイナス思考の時には「手記」をつけます。カウンセリングの一種です。
後で見直して、いつも今生きていることにほっとします。
わたしのこの性格は、直せるのかどうか。
自分でもわかりませんが、少しずつましにはなって来ているようです。
周りの環境のせいでしょうか。

それでも、わたしはこんな性格ですので気分にむらが出やすい・・・つまり浮き沈みの激しい人間です。
この間も、いろんな人がいる前だというのに、発作的にチューナーを床にたたきつけてしまいました。
単に自分にいらだっただけでしたが、周りの人に心配をかけるべきではないと痛感しました。
ともかく、その思考回路のせいでせっかくの約束もおじゃんになったりします。

わたしは、だから人と付き合うのは苦手です。いつ傷つけてしまうかもしれない、そんな不安ばかりがよぎり、相手を傷つけないために・・・相手に傷つけられないように、自分から進んで傷つこうとします。
最近わかったことです。
「わたしのことうっとうしいんやろ、嫌なんやろ。ならもういいよ」
こういって、相手がどう思っているかも確かめずに自分からひこうとします。
ところがこの間は、ひこうとしたのに引っ張られました。

わたしはマイナス思考の度が過ぎるということから、
「わたしってこんな人間やから、こんなのと一緒にいるのはもう嫌と思うならそう言ってよ」
と、自分の中身を説明した上で言ってみました。
そんなことを言ったところで
「あ、うん。そうする」
というような人はいないかもしれないのですが、でもわたしをうっとうしく思ったら、だんだん避けてはいくだろうと思いました。
その相手のことが大切だから、傷つける前に・・・傷つけられる前に離れようという魂胆です。
ところが、その時相手の人物はこういうのです。

「何言ってるの」
わたしは思わずきょとんとしてしまい、気の抜けた声で
「へぇ?」
と言ってしまいそうになりました。携帯電話に向かって。
なんだかなぁ、虚しいですね。
「僕がそらちゃんに対して感じることも、そらちゃんが僕の言動に対して感じることも全然違うんやから。違って当たり前。だから、大丈夫」
・・・わたしは、ふっと気が緩んでへなへなと布団に転がりました。
そうか・・・そうなんやね。
また何も気づかずに大切なものをひとつ失くすところでした。
もっと素直になっていいんだよ、と言ってくれた友達の言葉が胸に響きました。

自分に優しくある前に、目の前の誰かに対して優しくなりたい。
それは、わたしがずっと昔から考えていることです。
でも、多少は自分のために優しくなるのも必要かもしれない。
素直になって、目の前の誰かに甘えてみるのも許させるのかもしれない。
優しさは相手のこころに架けるだけじゃ意味がないのです。
相手からも架けられてこそ、意味を持つのだと思います。

優しさの架け橋。
わたしの大切な人たちのこころとこころをつなぐ、その橋の上はとても暖かい風が吹くのです。
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by symphonic-bone | 2005-10-18 10:19 | 生きること

あたりまえのこと

最近仲直りをした友達が、わたしの知らない間に変わっていました。
彼は、なんだか自分の気持ちをちゃんとわたしに伝えようとするようになったのです。
なんのことはない、他人から見たら当たり前のことなのでしょうが・・・。

以前、彼は自分の気持ちを話してくれないとか何とか書いたような記憶もありますが、それから今日までの間にいろいろありすぎて過去のことになりつつあるこのごろでした。
仲直りをした(彼のほうはもともとわたしとけんかをしたという意識がなかったらしいのですが)その日にメールを送ってみました。
いつもEメールなる文明の利器で失敗しているわたしですが、それがわたしの、自分を表現する精一杯の方法なのです。
自分で書いてて泣けてきます。
すると、返ってきた返事には、今までの彼とのやり取りの中でもわたしが目にすることのなかった文字が並んでいるのです。
「そらちゃんがそういってくれるとうれしい」
「今日は本当にありがとう」
驚きとうれしさで卒倒しかけました。

でも、誰が見てもありふれた、ごく当たり前の文章ですよね。
わたしはこの言葉のどこを見て、そんなにびっくりしたのか。
・・・読んで驚かないでください。
「うれしい」、「ありがとう」
この言葉に、特にびっくりしたのです。
彼はたとえそんな風に思っていても、絶対口にしない人間だと思っていたからです。

この友人というのは、本当に自分の思ったことを言うことが少なく、長い間一緒にいるのにもかかわらずわたしも未だにつかめないところがあります。
そのせいでわたしは彼を傷つけ、いろいろあったわけですが。
でも、その彼がわたしにこう言うのですよ。
「うれしいよ」
と。
うれしい、というのは間違いなく自分の心の中にある気持ちです。
彼のそんな言葉を、わたしは聴いたことがなかったのです。

正直に言うと、いつも彼の顔色を窺って話をしていたのかもしれません。
「あ、嫌そうやな」
「もしかして喜んでるんかな」
わたしは常にそうやって自分で判断して来たのです。
まぁ、言われてみれば普段から
「うれしい!」
とか
「ありがとう!」
ばかり言っている人も少ないのでしょうが、彼に関しては、顔が見えないメールのときでさえそういう感情を表に出してくれないので、そのこともあってわたしは余計にうれしく思いました。

そうです、きっと当たり前のことなのです。でも、それがなぜそんなにうれしく思えるのか。
下記の詩のようなものは、10月10日に放送された、『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』というドラマの原作になった本の一節です。


 「あたりまえ
 こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう
 あたりまえであることを
 お父さんがいる
 お母さんがいる
 手が二本あって、足が二本ある
 いきたいところへ自分で歩いてゆける
 手を伸ばせばなんでもとれる
 音がきこえて声がでる
 …
 みんなあたりまえのこと
 こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
 そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ
 なぜでしょう
 あたりまえ

  井村和清(昭和54年1月1日)
  <『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』(祥伝社刊)より>」


これを読んで、わたしは思いました。
「あぁ、確かにそのとおりだな・・・」
と。
失くしてみて、気づくのです。
そのもののあまりの大きさに。
自分が深く悲しんでいるということに。

わたしは、彼といるのは当たり前だと思っていたのです。
メールをするのも、話すのも、一緒に出かけるのも。
でも、一度それを失くしました。そのときに、その大きさに気づいたのです。
当たり前だと思っていた自分がいたから、失くしてしまった。
喜ぶことすらしなかったから、当たり前だと思っていたから・・・。

当たり前のことは、すばらしいことです。
珍しいことはその場限りで終わってしまうことが多いけれど、当たり前のことはずっと続きます。
おとうさんとおかあさんは、ずっとわたしだけのおとうさんとおかあさんです。
秋の空を眺める目も、金木犀のにおいをかぐことのできる鼻も、トロンボーンの音を聴くことのできる耳も持っています。
『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』を見て、その当たり前のことこそすごいことなんだということに気づきました。
そして、わたしを見守ってくれる先輩や友達がいるということに、今わたしがいるということに、彼の返事の内容に、心から感謝しました。

当たり前だと思っていること・・・そのことこそ、一番喜ぶべきなのだと思いました。
そのことは、失くした人しかわからないということはありません。
当たり前だと思っていたことに注意深く耳を傾けて、そしてそのことに感謝したときに、
「あぁ・・・すばらしいことだ」
と、気づくことができるのだと思います。

当たり前のこと。
それはただただ単純に、幸せだと思うことなのです。
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by symphonic-bone | 2005-10-12 13:51 | のんびりしたこと

鏡越しの自分

この謎のタイトル。
字があっているのかは自信がありませんが。
例えば・・・そう、この言葉をわたしにかけてくださった方には通じていることでしょう。

わたしはいつもいつも後ろ向きで、誰かの機嫌が悪かったり冷たく当たられたりすると、それだけでくよくよしてしまいます。
要するにネガティブというやつです。
もちろん、直そうという努力はするのですよ!でも、やはり殻にこもろうとするのですね。
その上、そんな性格のくせに、思ったことをポンポンと言ってしまいます。
そのせいで悔やんだということを、ここにもいくつか書いてきましたが、今から書くことはその結論です。

「他人は自分の鏡やで」
突然、先輩が言いました。
もちろん、わたしがくよくよしているのを見かねてだと思います。突然というか。
大げさかもしれないけれど、わたしはそう言われてはじめて気づいたんです。
その瞬間に、いろいろなことが頭を駆け巡って、消えました。
他人は自分の鏡・・・
なんとうまく言ったものだろうと。

わたしはそんなことにも気づかずに自分を追い込み、相手を傷つけました。
わたしが楽しいと思えるならば、きっと相手も楽しい。
わたしがどこかに行きたいといって、相手もいいといったなら行きたい。
わたしが・・・いつまでもそっぽを向いていると、相手だってきっとそうだ・・・。
わたしは彼を通して自分を見ていたのに、まったく気づいていなかったのです。

素直に他人を信じることができない、相手が何を考えているのか怖い・・・。
そんな風に思うなら、一緒にいて相手のことをじっと見てみることが一番の方法なのかもしれません。
少なくとも彼に関しては、もう意地を張って接するのはやめようと思います。
早速先輩にそう言われて彼を拉致して帰った結果、彼から窺えたわたしは・・・
本当に楽しそうでした。

「絶対行かへん!」
そんな風に啖呵をきったわたしでしたが、やっぱりそれは嫌だったので折れました。
「”また今度"、はある?」
彼はちょこんとうなずくと、
「うん、行こうよ」
もしかして社交辞令かもしれない、とか、本気で言ってるんじゃないとか、そんなことは考えませんでした。
その時ただ単純にうれしいと思った気持ちが、相手に届いていればいいのに、と思いました。

今しゃべっている誰かも、わたしの鏡なのだ・・・。
そんな風に思うと、人と接することが怖いとは思えなくなりました。
鏡を見ようとしないから、相手の声をちゃんと聴こうとしないから怖いという感情が出てくるのです。
逆に、相手が楽しそうだから自分も楽しいと思うこともたくさんあります。
そのことからは今まで目をそむけてきたような・・・そう、「わたしなんかといて楽しい人なんかいるはずがない」という感情のせいで・・・でも、これからは勇気を出して鏡をのぞいてみようと思います。
まずは手始めに、おでこのあたりまで・・・とか。
表情が見えませんね。
こんな場ですが、先輩・・・ありがとうございました。

今度は、鏡に映ったわたし自身を見失わないようにして日々を送りたいと思います。
鏡越しに見る自分が、泣き顔ではなく笑顔でありますように・・・。
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by symphonic-bone | 2005-10-10 15:28 | 友達とのこと

犬に生まれて・・・

さてさて、ここのところずっと自分の気持ちを書いてきたわけですが、ここいらでちょっくらこんな話をさせていただきます。
写真は、我が家の末っ子、太一といいます。でもわたしは漢字で書くのはあまり好きではないのでひらがなのイメージで話しかけます。
たいち。
なんだか優しい感じがしませんか?

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彼はわたしの中では「King of AHO」です。
だって、本当にあほな子なんですもの。
その理由はいろいろありますが、まず第一にたいちが赤ちゃんのときの出来事が大きく関係しているとわたしは推測しています。

たいちは今でこそ外犬ですが、小さいころはむろん、家の中で飼っていました。
階段の段よりも小さい子犬が、家の中をうろうろしている・・・!
毎日家に帰ってくるのがどれだけ楽しみだったことでしょう。
まぁ、ね・・・それもはじめの数ヶ月でした。今のたいちはというと、わたしが家を出るころには裏庭で日向ぼっこをしているし、わたしが帰るころには眠っているのですから、わたしと彼はほとんどすれ違い生活をしています。
今日の写真は偶然です。ちなみに、
「まだ半そで着てるのですかぁ」
と言っているように思えました。

そうそう、何故あほなのかでしたね。
いつだったか、わたしが
「たいちはほんまにあほ犬やわ」
とつぶやいていると、妹がこそこそとやってきて、
「なんでわかったん」
と言うのです。
「いや、だって・・・」
わたしが言いよどむと、妹は衝撃的な一言をぶつけてきました。
「太一が赤ちゃんのときに、あたし、階段の一番上から落としたことあるねん。わざとじゃないけど。だからかな」
そ、それだぁ・・・!!
ていうか妹、そんなことをしていたとは。
「でも、太一って頑丈やったみたいでさ、今も元気に動いてるしいいやん」
そういう問題なのか。
そのことを母親に言うと、
「たぁちゃんはあほ犬さんなんかとちゃうで」
と、わたしのほうが怒られてしまいました。

さらに注目すべきは、たいちは手を触られるのがいやなので、満足にお手ができません。
これも妹のせいなのですが。
昔、家に小さな車輪に取っ手が付いていて、腹筋をするような体勢でその車輪を転がして筋肉をつけるという、意味のわからない器具がありました。
おおかた、父親が買ったものだとは思うのですが。

やはりたいちが赤ちゃんのときです。
彼のテリトリー内であった居間で、彼はちょこちょこと走り回っては母親にご飯をねだったり、寝転がるわたしの体を踏みつけていったりしていました。
さぁ、ここで妹の登場です。
もう、先は読めているのではないかと思うのですが、そのとき妹は同じく居間で、テレビを見ながら果てしなく意味のわからない器具で運動をしていました。
そこへ、
「キャン!」
と言う声が上がりました。と同時に
「あ、ごめん」
と、なんとも冷静な声も上がりました。
妹は、その器具でたいちの前足を踏んでしまったのです。
しかし階段から落ちても元気なたいちです、今回も何事もなかったかのようにまた動き始めました。
「なんや、こいつは」
とわたしは思いましたが、まぁお手ができないくらいなので日常生活に差しさわりはないようです。
しかし、幼児期の心的外傷はおそるべしだ、ということを学ぶことができました。

とはいえ、わたしはたいちに毎回無理やりお手をさせ、昨日の夜は帰ってきて偶然に目をパッチリ開けていたたいちに、
「起きてるんやったらリバーダンスでもしよか」
とむんずと前足をつかんで立たせると引っ張りまわしました。
「キャイン!」
とたいちが悲鳴をあげたのはいうまでもありません。

たいちが何を考えているのかはわかりませんが、ただわたしは
「この家に来てよかったよ」
と思ってくれたらいいのにと思います。
犬であるが故にできることやできないことはありますが、なんにせよこの日常がたいちにとって幸せなものであればいいのにと願うまでです。
偏った親心かもしれませんが・・・。

犬でも人間でも、植物でも昆虫でも。
生きていると言うことはみんな同じだな、と、たいちを見ていると思います。
あなたに出会えて、よかったよ・・・。
そんな風に思える相手がいると言うことは、それだけで幸せです。
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by symphonic-bone | 2005-10-08 13:29 | のんびりしたこと

光射す方へ

練習に行こうと思うものの、何故だか足が進まずに、仕方ないので課題を仕上げてからにしようと決めました。
何故足が進まない。
理由はカンタンです。会いたくないと思う人がいるからです。
たとえどんな人であっても、そんなことは思いたくないのに、まったくわたしという人間はみみっちいから嫌になります。
でも相手も悪いから!
・・・言い訳してもしょうがないのですが。ともかくわたしは、足が前に進みません。
その人と元に戻ればあっさり解決でしょうが、わたしの性格上それはもう無理でしょう。
ーなんて思っていたのですが。

最近の女子高生らしいわたしの妹が、
「これ読めば」
と、「読む?」とか「どうかな?」なんていうわたしの意見をまったく無視してある本を差し出してきました。
題して、『電車男』。
まぁ、知らない人もいないと思います。映画にドラマ、とても有名になりましたから。
推理小説ばかり読んでいたわたしは、
「おー、借りるわぁ」
といい、その本を借りてみました。
はじめこそ、確かに普通の本とは書き方が全然違うものの、恋愛の話だな、という位にしか思わなかったのですが、だんだん読み進むうちに、はっとさせられるところが何箇所もありました。

いつも何かしらの本を読むたびに、その本たち教えられることは多々あります。
今回の場合は特に、普通の本とは違ってもともと「誰か」が、電車男に話しかけたりほかの「誰か」といろいろ話したりして話が続いていくわけですから、普通の小説を読む以上に感慨深いものがありました。
・・・会いたくない人がいるから、行きたくない。
でもそんなことを言っていたら、その人の心ごと誰かに持っていかれるかもしれない。
そんな風に思いました。
とはいっても、意気地なしのわたしはうじうじしているのですが。

もちろん、「会いたい」と思ったときに実際その相手に会える人なんて少ないでしょう。
でも、「会いたくない」というのは、そう思うたびに思う相手とは実際そのとおりになっていきます。
つまり、「会いたくない」といって、できるだけ避けて通るようになるからです。

「~したくない」というのは、実に魔法の言葉です。本当にそのとおりになってしまうのだから。
まぁそれも表面だからいえることであって、中身を「~したくない」で片付けるのには無理があります。
「嫌いになりたい」とたとえ願っても、「好きになんかなりたくない」と願っても・・・好きなものは好きなのです。それはもう、どうしようもない。
ただ、そう思ってどうするのか、それは重要です。
気持ちは行動につながっているのかもしれませんね。

わたしは今、真っ暗なところにいるわけです。
なぜかというと、わたしを引っ張り上げようと手を差し伸べてくれた相手の手を、わたしが自ら振り払ってしまったからです。
「もうあなたの力は借りない」
なんて強がってみたけれど、本当は泣きたくなるくらいに怖い。
相手はきっと、そんなことは知らないのでしょうが。

たとえ情けなくても、かっこ悪くても。
もう一度だけ話しかけてみようかな・・・。
勇気を出すことに、恥ずかしいことはないと思います。

足が進まないのなら、少しくらい立ち止まって休むのも手ですね。
だけど、一歩ずつでいいから前に向かって歩いていこうと思います。
そう・・・、
光の射すほうへ・・・。
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by symphonic-bone | 2005-10-07 16:15 | 友達とのこと

ありがとうの花

最近言葉のことについてよく書いています。それはきっと、わたしが何かしら言葉というものについて思うところがあるからなのでしょうか。

ついこの間、バイト先でかまってくれるお兄さんに(同じバイトの人ですが)
「そら、おまえさ、すみませんしか言ってへんな」
と言われてしまい、びっくりしたと同時にそうかもしれないと思ったりしました。

すみません。
多くは、ごめんなさいの意味を含んで言っているのでしょうが、あまりプラスの言葉ではないのかもしれないと思いました。
何か悪いことをして、「すみません」。
でも、
「これこれをやっておいてあげたよ、忙しそうやったし」
・・・それでも、わたしはこう答えます。「すみません」、と・・・。
そういうときに言うべきことは、すみませんより、ありがとうございます!じゃないのかな、と思いました。

すみませんという言葉は、悪いことじゃない。悪いことをしたときは、もちろん、すみませんと謝るべきでしょう。

わたしは今のバイトを始めてもう1年と4ヶ月になります。その間にいろんな人と出会い、いろんなことがありました。
わたしと同期で入って、すぐやめていった友達。
すごくすごく怖かった先輩。
今一緒に働いている、口は悪くても手が早くても、こころがとても暖かい人たち・・・。
そんな中で、その人がいるだけで登社拒否になりそうになった方に言われたことがあります。

その人はとてもとても怖い人でした。
わたしはトロくててきぱき仕事ができない上、練習だ合宿だ授業だでよく休んでいたので、あまりいい印象はなかったのでしょう。
今彼女に会うと、どう思うかはわかりません。また違った想いを抱くことだけは間違いないでしょう。
ともかくそのころは、本当に毎回行くたびに泣き、隙あらばとんずらし、徐々に覇気がなくなって、普段以上にトロい状態でした。
それでも彼女のほうはわたしに仕事を覚えさせようと思ったのでしょう、何かにつけて声をかけ、怒って、わたしが泣いたらトイレに行けと言う繰り返しでした。
「ほんとうにわかってるの!?」
「・・・はい」
「わからんかったら聞いたらいいっていつも言ってるやん」
「すみません」
彼女はため息をつきます。
「あのなぁ、もうあたし、わからへんわ。あんたが礼儀正しい子やってことはわかってるけど、あんたはあたしが何を言っても”はい”と”すみません”しか言わへんやん。そうやって自分の気持ちを押し隠して、ほんまにそれでいいの?」
ほんまにそれでいいの。
その言葉は、いまでもわたしの中で自問自答の対象となっています。
わたしも、思ったのです。
ほんまにこれでいいんやろうか・・・と。

それ以来、バイト先ではできるだけ自分の気持ちをはっきり言うようにしてきました。
すると、周りからの反応も劇的な変化を遂げました。
わたしがしっかり自分の意見を、気持ちを前に出すことによって、それに対してみんなきちんと反応してくれるようになったのです。
今ではふざけてからかいあったりしています。
登社拒否なんてとんでもない。
今となっては懐かしい思い出ですが、残念なことにわたしがバイト先で変わったことを、彼女は知りません。
今はもう、大学を卒業して地方に行ってしまいました。かれこれ半年になります。
会いたい。
そう思う気持ちもあります。少しは変わったわたしを見てもらって、そして、こういいたいのです。
「ありがとうございました」
と。
「あの時はすみませんでした」
なんて、そんなことはいいたくない。ありがとう、と言いたいと・・・。
かなわない夢ではあるのですが。

すみませんというのは、なんだか癖づいてしまっているようです。
悲しそうにすみませんでした、というくらいなら、にっこり笑ってありがとうと言う。
すみませんといわなければならないようなことをできるだけせずに、ありがとうといえる事をするように心がけていきたいものです。

1日に何人もの人に会います。
そのたびに、その相手がしてくれたちょっとしたこと・・・例えば消しゴムを拾ってくれたとか、手がふさがっているときに部屋のドアを開けてくれたとか、もっともっと些細なことでもいいから、誰かがくれた好意に、にっこり笑ってありがとうと言いたいのです。

ココロに、花が咲く。
ありがとうの花を、いっぱい咲かせたいと思います。
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by symphonic-bone | 2005-10-06 16:29 | バイトのこと

ココロのこと

なんだかやるせない気分になることが、最近多々あります。
たとえば音楽だけに限らないんですけども。
人間関係にしても、将来にしても、わたしはいったいどうしたいんだ、と自問自答ばかりです。
それが悪いことだとはいいませんが、あまりやりすぎると自分を追い込んで苦しくさせるだけだなと思いました。

「気持ちが見えないのは怖い」、と以前書いた覚えがありますが、まさにそのとおりであることをまたもや痛感しました。
わたしが
「何で何も言ってくれへんの」
といってもなお、何も言わないというのは、わたしに対して何も言うことがないのだと、そんな風に受け取れということなのでしょうか。
友達をひとり、失くしました。

ともかくそれでどんよりしていて、そうすると次々とあの人にもこの人にも嫌われているんだという被害妄想が広がってきたのですが、
「先輩たちもわたしのことを・・・」
と、思おうとしたのですがどうしても思えませんでした。
そのときにはっきりと自分のマイナス思考を実感しました。
つまり、わたしは何でもいいから『わたしは嫌われている、だから何をやってもだめなんだ』と思おうとしていたのです。
それでいらいらして
「なんで嫌われてるって思わせてくれへんの!」
と、すごく理不尽なことを考えましたが、一方ではそれはわたしが自分で思う以上に幸せであったからだともいえるような気がして、ほんの少しだけほっとしました。

気持ちが見えないのはつらいです。面と向かって、たとえ嫌味でも何でも言ってくれるほうがまだほっとするものがあるのです。
何人の人がそのことに気づいているでしょうか。
「こんなことを言ったら嫌われるかもしれないから、黙っておこう」
「あんまり話したくないけど、かわいそうだから・・・」
同情するなら・・・お金は要らないですが、本当のことを言ってくれたほうが価値はあると思います。
まったく、世の中とは難しいものですね。
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by symphonic-bone | 2005-10-05 10:24 | 生きること

日記のススメ

なんだかずいぶん長い間、何も書いていなかった気がします。
気がします、じゃなくてそうなんでしょうね。
ところでわたしは、これとは別に15歳のときから日記をつけています。そろそろ書き出して5年になるわけです。
この面倒くさがりのわたしが、なぜこんなに続けることができているのか。
きっとそれは、わたしが日記を書き始めたその日の出来事が影響しているのではないかと思います。

あれは忘れもしない5年前の11月14日のお昼休みのことです。
その日は偶然にも給食のおかずが焼き鮭でした。
担任の先生が休みだったので代わりに副担任のちょっと変わった先生が来ていました。
わたしは先生と仲もよかったので、近くの席で給食を一緒に食べることになりました。
「先生見てくださいよ、今日のお昼ご飯、鮭が!」
「本当だね、ぼく大好きなんだよ」
「あ、わたしも」
「気が合うね」
「本当ですね」
「・・・今日の晩御飯も、鮭を焼いてもらおう」
「うっわ、じゃあわたしもそうする!」
という、しょうもない会話をしていると、近くにいた友人がぽつり。
「そんな夫婦みたいな会話するん、やめてくれる?」
その友人の冷めた目がおかしくて、その日の夜はそのことを書き残しておかなければ、と思ったのが始まりなのです。
ちなみに、その日の夜に家に帰ってからこの話を母親にすると、あきれられたついでに鮭を焼いてくれました。

いくら覚えておこうと思っても、いつしか記憶というのは薄れてゆきます。
よっぽど印象的なことは、言葉にして残さなくても頭に入っているのかもしれないけど、でもやはり完璧に残るわけではありません。
悲しかったことは、美化して残そうとする。
楽しかったことは、さらにいいことだったというように残そうとする。
みんながみんな、そうではない事はわかっています。ただわたし自身はそういう性格なので、起こったことはきちんと書き記して後で見て笑ってみたり、あほやったなぁと後悔してみたり、今思い出しても悲しいと泣きそうになったりするのです。

日記にだけはどんなことを言っても許されるのだと思っています。
思ったけれども言えなかったこと。
とてもとても言いたかったこと。
言ってしまって後悔したこと。
どんなに悲しいことでも、どんなにプラス思考の思い込みでも。
誰かに対する優しい思いやりも、悲しくなるような中傷も。
日記は何も言わず、ただ静かに黙って聴いてくれています。
それがとても、わたしにとっては心地いい。
まぁ、日記帳の立場にたてば、たまったものじゃないでしょうが。

わたしにとって日記帳というのは過去へ旅するときのパスポートみたいなものです。
その旅が、悲しい想いで埋め尽くされてなければいい。
そんな風に思います。
モノを書けるというのは幸せなことです。何かがあったと書くということは、大概誰かとつながりがあるということだからです(一概には言えないのですが)。
たとえどんなことであっても、誰かと一緒にいてこう考えたのだと後で見返すだけで、それだけでうれしいことなのだと思います。

あ~・・・、だから日記はやめられないのです。
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by symphonic-bone | 2005-10-03 23:00 | 友達とのこと